생애사와 작품의 세계

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Ⅰ. 彼の人生と芸術は汗と涙に満ちた荘厳で激しいドラマ

▲(左から) ◆風俗図(キム·ホンド原作再現) ◇サイズ:35×40cm(横×縦) ◇材料:純紙に彩色(墨、東洋の絵の具) ◇製作年度:1970年 ◆風俗図(キム·ホンド原作再現) ◇サイズ:32×38cm(横×縦) ◇材料:壯紙 に彩色(墨、東洋の絵の具) ◇製作年度:1970年(写真=文化ジャーナル21DB/資料写真)

パクジョンヨン画伯は1953年12月30世帯しかない寂しい山村村である慶尚南道咸安郡ヨヒャン面内谷里鳳谷部落で当時、教師だった父親(パクキボン)と家事に従事していたお母さん (チョンウクナム)の2男4女のうち2南に出生した。

当時の田舍の風景がそのように、兄と村の友達と町の野山で遊び回ったり、漁、セミ捕などで幼年時代を送っており、、8歳(1960年)になって、家で4kmほども離れた閭巷面所在地の外岩(ウェアム)小学校に入学して本の包みを締めてゴムの履物を履いて歩いて通った。1960年代の田舎町の典型的な風俗図だ。

運命の例示しようかな?小(国民)学校に入学して間もないある日、書道家であり画家である釜山松島中学校で国語教師として在職中だった父親が週末、故郷(咸安)に帰ってき、藁葺きの家のサランチェ(居間棟)で絵を描くとき、そばでマンガの中の絵を描いて見始めたのは芸術の人生のスタートだった。もう60年前のことだ。

教師だった父は書道と絵で優れた技量を見せ、二つ年嵩の兄(ジョンホン)やはり小学校に入学するやいなや絵を描き始めた。このような家門の影響か分からないが、8歳の時から絵を描き始めたパクジョンヨンは、この時から、ちょうちんを明らかにして人物、風景などの各種絵を描いたりし、また、4kmほども離れた学校から家に帰る道の途中に休みながら本の包みの中のノートなどを取り出して村の景色や農夫たちの姿などを随時スケッチしたりした。

▲ (左から) ◆算数 ◇材料 : 純紙に彩色(東洋画絵の具) ◇サイズ : 65×43.8cm (横×縦) ◇製作年度 : 1979年 ◆算数 ◇材料 : 順地に彩色(東洋画絵の具) ◇サイズ : 65×43.8cm(横×縦) ◇製作年度 : 1979年 (写真=文化ジャーナル21 DB/資料写真)

当時(1960年代)はビ玉遊び、めんこ、雪かきなどで幼いころを過ごすのが通常の姿だったが、パク·ジョンヨンはこのような日常的な遊戯生活より絵を描くことに没頭した。 また、時々鎌や包丁、鉛筆ナイフなどで各種(人形)彫刻をしたりもした。 このように彼の幼い頃は絵を描くことと彫刻などで一貫した。

特に、12歳の時に花札の絵炳などを描いて見せると、周辺の人々から「絵神童」という言葉を聞くようになった。 「グリムシンドン」という称賛に鼓舞されたパク·ジョンヨン、この時からソルゴなどと同じ歴史に残る画家になることを決心した。 このように幼い頃からまるで神様のように提灯を灯しながら絵を描いたり、学校から帰ってくる道ごとに休みながら休むことなく数多くの各種絵を描いたり彫刻をする過程などで運命は自然に決定されたのだ。 まさに天業と言わざるを得ない。

このように小学校時代から画家の夢を知り各種絵を描き始めたパク·ジョンヨンは小学校卒業後、馬山に留学して下宿生活(馬山昌信中学校)を始めた。
朴ジョンヨンの中学生時代は絵を描くことに加えてボクシング、マラソンなど、運動に没頭した時期だった。 しかし、関心事は美術であり、絵を描くことに本格的に没頭した。

この時代(中学時代)には下宿の部屋の中で鉛筆、インクペンなどで映画俳優の人物(肖像)を描いたり、土·日曜日には随時スケッチブックを持って馬山前の海辺で海の風光をスケッチしたり、馬山の舞鶴山に登って舞鶴山の風光(山水)や、野原の野生花および花園(ファウォン)をスケッチした後、作品に完成したりもした。

また、この時期に晋州開川芸術祭、慶州新羅文化祭およびその他の大小の(学生)写生大会に参戦して数多く入·特選し、自身の絵が学校(昌信中学校)に常に対になっていた。
未来の大画家(対話が)夢をさらに固める時期でもあった。
中学校に入学した後、運動、美術などをより一層心酔していくことを知った父親は「運動選手や絵師は飢え死にする」というふうに数回にわたって憂慮を表明したが、息子(朴ジョンヨン)の意をくじくことができずあきらめ状態に陥る。 朴鍾龍の中学生活は運動と絵を描くことで一貫していたが、彼の夢はひたすら大画家になるという一念だけだった。

このように朴ジョンヨンの中学時代はボクシング、マラソンなど運動と絵を描くことなどに渾身の努力を尽くした熾烈な時期だった。 特に1968年に昌信高校(馬山)に入学した後、その年の夏に釜山で開かれた韓日親善マラソン大会(中等部)に出場して1位になった。 このマラソン大会は当時かなりの反響を呼び、翌年(1969年)第11回ベルリン世界オリンピックマラソン優勝者の孫基禎 (ソン·ギジョン)を輩出した楊亭(ヤンジョン)高校で体育特技生として朴鍾龍(パク·ジョンヨン)をスカウトする同人になった。 また、1969年の上京と同時に高麗民芸史の画家として就職し、本格的に仁寺洞時代を展開できるようにした背景になった。

たとえ(運動)特技生としてスカウトされてきた状況だったが、1969年夏に上京した後、当時羨望の対象である高麗民芸史画家に抜擢され、仁寺洞で画室を用意し、作品活動を始めた。
体育特技生での運動や(補足)授業など学業維持に必要不可欠な時間以外は、ひたすら絵を描くことだけに集中した。 午前、学校の授業が終わるやいなや、仁寺洞(インサドン)の画室に駆けつけ、狂ったように絵を描いたのだ。 朴鍾龍の仁寺洞時代は、このように盛り上がり始めた。 大画家の夢を実現させるため、芸術の溶鉱炉の中に身を投げたのだ。 この時がわずか17歳の1969年の夏だ。

とにかく彼の仁寺洞時代(1969~)はこうして始まった。 ある意味、運命の啓示による凄絶な芸術家の道に自然に入ったのだ。 この時期に曹渓寺の丹青を見て仏画を描き始め、三角地で米軍の肖像画を描き、忠武路などで漫画と劇場の看板などを描いた。 また、時間があるたびに清渓川の万物市場を訪れ、山のようにあふれ出る各種絵や骨董品を観察しながら、すべての分野の絵を描き出すなど、自らを厳しく鍛えていった。

このように朴鍾龍の芸術(美術)は誰の助けもなく自らを苛酷に鍛えながら形成され進化していったものと見られる。 このような過程でパク·ジョンヨンの芸術世界は日々熟練し、ペンネームもそれなりに知られるようになり、 雲甫、キム·ギチャン画伯など当代の巨匠たちから惜しみない賛辞を受けたと知られている。

特に、高校卒業数年後に漢陽大学に入学したが、その年の秋(1974年)に入隊し、1年後に教師だった父親が突然他界し、除隊後(1977年)に母親と兄弟姉妹の生計維持などに責任を負わなければならない境遇に置かれることになった。 学業をあきらめ、商業画家の道に進まざるを得なかった。 胸に思いをはせるような状況だった。

▲ (時計回り) ◆陶磁器(皿) ◇材料:高嶺土·白土 ◇サイズ:15×15×7cm(横×縦×幅) ◇製作年度:1980年代初め ◆陶磁器(壺) ◇材料:高嶺土·白土 ◇サイズ:41×49×41cm (横×縦×幅) ◇製作年度:1980年代初め(写真=文化ジャーナル21DB/資料写真)
▲(時計回り) ◆ 仏敎彫刻 ◇ 材料 : 槐木 ◇ サイズ 30 × 48 × 5cm (横 × 縦 × 幅) ◇ 製作年度 :1990年代初頭 ◆、水月観音図 ◇ 素材 : シルク生地に金粉彩色(石彩) ◇ サイズ : 65 × 122 (横 × 縦) + 製造年度 : 2020 (韓国) (写真=文化ジャーナル 21 DB / 資料写真)

このような痛みを胸に抱いて除隊(1977.8)以降、さらに本格的に仁寺洞や龍仁(ヨンイン)・天安アトリエを転々としながら涙を流しながら手足が剥がれように肖像画、山水画、花鳥も、静物画、霊廟化、 各種の民畵(チェクカド・百童子圖・カササギ虎など)と山神も・毒性も・ビョンサンド・水月觀音図など各種の佛畵と虎の絵たちを昼夜を横切って絶え間なく描いた。特に、 龍仁(1979~1990)や天安(チョンアン)(1990~2006)時代には平面芸術を超えても・彫刻・版画・タイル絵など、全ジャンルに拡散しながら生きるため、躍起になった。幸い、日本との取引などで難しいながら生計を立ててきた。 '涙なしには読めない汗と涙でごった返しになった過激な人生ドラマ'と言わざるを得ない。

Ⅱ. 世界が手招きする朴ジョンヨン芸術。これからどんな偉業を繰り広げるか期待される状況

見てきたようにパクジョンヨン画伯の人生と人生(芸術)歴史は言い表わせない苦難と逆境の連続だった。まさに涙瑞麟桎梏の人生だった。特に、龍仁(ヨンイン)(1979~1990)
・天安(1990~2006)時代には家族や兄弟姉妹たちを助けるために、平面芸術を超えても・彫刻・版画・タイル絵など、全ジャンルに拡散させ、完熟が増すことにによって'芸術の錬金術師'全天候芸術家'で別稱(別称) があったと伝えられている。

このような過程で困難な時代創作していた多くの作品が歴史の向うへと陥没されて流失(流失)なってしまった状況に残念さの涙を流しながらこの地の上に永遠に生きて呼吸する生命芸術を求めた。 運命の必然的な流れであり啓示だった。

▲ (時計回り) ◆無題(結) ◇材料 : 麻袋·土·石彩 ◇サイズ : 112×145(横×縦) ◇製作年度 : 2016年 ◆無題(結) ◇材料 : ビニール生地に土·石彩 ◇サイズ : 91×116(横×縦) ◇製作年度 : 2016年 ◆無題(結) ◇材料 :麻袋·土·石彩·丹青 ◇サイズ : 73×91(横×縦) × 高さ /製作年度:2019年◆無題(結) /材料:麻袋·石彩·土石彩団青×黒/黒

数多くの瞑想の末に2004年の冬から天安アトリエで宇宙の神秘を肉筆の言語に描いた抽象表現主義作品を開始した。しかし、初期(2004~2005)衝撃的な失敗を味わった。
すべてのジャンルの作品を多芸多才に表現することができると自負していた状況でどうしようもない駄作で見せる作品の前に呆然としながら、2006年から'雪岳山アトリエ'で汗を流しながら労働の歴史を開始した。

新しい生命芸術(抽象表現主義)に向けて再び全力を傾け始めた。警戒を越す生命芸術を向けた別な疾風怒涛の歴史が始まっており、十数年の歳月が流れた2015年の冬頃になって、ようやく深みのある作品が誕生し始めた。再び3年余りの歳月を経て、ついに孤独と神秘や韻律と授賞を含んだ数多くの生命(抽象表現主義)作品が誕生した。作家はこの過程を 「熊が人間になるために洞窟でもがき苦しんだ、それと同じような過酷な時期だった。」と述懐とはした。

こんなに誕生された抽象表現主義作品は昨年1月、芸術の殿堂及び3月、春川(チュンチョン)KBSの展示会などで本心を現し、ブームを巻き起こした。筆者はこれらの展示に参加して祝辞を述べたりもした。 特に芸術の殿堂の展示でコハクチャン(芸術の殿堂)社長は芸術の殿堂の開館以来、最も多くの人が参加したと言い、感激した。

熱い戦時のブームは、観客の時代を開幕し、彼の芸術歴史を書き直した。芸術の溶鉱炉に、人間の傷痕を溶かしながら神話創造に向けた新たな旅の始まりに見えてくる。
世界を向けた飛翔を予告するシグナルがないことはできない。
8歳の時から作品活動(スケッチを開始したパクジョンヨンは今日に至る60年の間に一時も筆をおいたことがない天成の作家だ。
特に、青年時代、父の突然の他界で家族や兄弟姉妹たちの生計維持のために涙を流しながら学業を中断しなければならなかった。
また、その困難だった時代(1970年代半ばから2000年代半ば)本当に奴隷のように作業してどうして売られていく作品の価格などで持ちこたえていながらも、芸術への殉教を約束し、絶え間ない自己修練敢行し、 ついに孤独と神秘や韻律と授賞を含んだの抽象表現主義の作品を誕生させた。

彼の独白のように"石がすれて粉になっており、..."する切実さを抱えて厳しい歳月の痛みに耐えながら走ったことだ。彼の一生は生命芸術に向かって奮闘した疾風怒濤の歴史だ。 不屈の意志で生涯のすべての試練を乗り越えながら、ついに抽象表現主義の新しい芸術を成し遂げた廣大無邊、一人の作家と言わざるを得ない。

こんなに誕生した新しい抽象絵画は大きな反響を起こしており、ひいては米国有数の画廊から賛辞を受けただけでなく、フランス、日本などまで関心を傾け、招待の意向を表明したと伝えられている。60年星霜の風雪の中に不屈の意志でついに偉業(抽象表現主義)を達成したパクジョンヨン芸術に世界芸術界が手まねを送ったのだ。 世界に向けたパクジョンヨン芸術の明かりの映し出され始めたのだ。